フジヤマさん業の仕事-劇場版-

映像|2015

村松 健太 松永 昂史, 渡部 克哉, 村上 由宇麻, 今尾 拓真

京都市立芸術大学

ART DIVISION BRONZE

この作品で一番伝えたいことは「好きなことをやり切る」ことだ。自分たち芸大生は好きなことを仕事にしたい。作家になっても、会社に勤めても、どちらにせよ「自分の好きなこと」をする道を選びたいと思っていた。しかし、「このまま好きなことを続けることは出来るのだろうか?」と考えるようになった。現実問題として難しい。しかし、自分たちはそれでも「好きなことをやり切る」道を選びたい。そんな想いが篭った作品を作りたくなった。皆の想いはひとつ。しかし好きなこと・学んできたことはそれぞれ違った。けれど、それで良いと思った。専攻の違うメンバーが、好きで学んできたこと・表現したいことを、組み合わせれば、新しく面白い作品を作りあげることが出来ると考えたから。この作品を作った全員が自分のやりたいことを思う存分作品に入れ込みそれがとんでもない勢いを生み出した。観る人に「好きなことをやり切る」ことの大切さを感じて欲しい。

審査員コメント

  • 例えば、ある映画の中の役者の演技が下手くそすぎて、その物語に没入出来ない事がある。役者が、演じている登場人物に見えず、役者自身が単にセリフを発話しているようにみえる事態。あるいは、ところどころで演じている登場人物と、役者自身が二重化して見えてしまうようなこともあるだろう。下手な演技はフィクションの世界のリアリティを失わせ、完結した世界として閉じることを失敗させる。そんな演技では、安心してフィクションに没入できなくなるから、下手と言われるのだろう。けれど、安心してフィクションに没入できてしまうことは、フィクションが、鑑賞しているこちら側の世界を何も干渉したり脅かしたりしない退屈さにもつながる。安心してフィクションに没入できない状態、つまり、どこからがフィクションで、どこまでが現実なのかという区別が曖昧な方が、鑑賞することの経験としてはよりスリリングなんじゃないだろうか。では、ここまでの話を前提として、それが「役者」ではなく、「機械」だった場合どういった事が起きるだろうか?つまり、演技が下手くそな「機械」が登場する物語。

    谷口 暁彦 作家
  • 不景気下における中小製造業の悲哀を描くのに、あそこまで凝った装置が必要なのだろうか。制作した装置の魅力を伝えるために、あそこまでの演出や演技力は必要なのだろうか。「劇場版」という言葉が指し示すように、物語をベースにした映像表現であることを重視していながら、ドラマの要素と装置の要素、これらの主従関係が混濁したまま物語が展開していく点が本作の魅力である。機械は動植物と同様に、フィクションなどという人間のお約束は通用しない。そのため作中に装置が出てきた瞬間にフィクションの要素がジワジワと溶け出し、結果として、この非現実なドラマに一定のリアリティをうっかり与えてしまう。そのせいだろうか。日本のどこかには、チームラボやライゾマティクスのようなクリエイティブ集団を目指して、業態の転換を図る中小製造業が存在するのではないか。平行世界のチームラボやライゾマティクスは、フジヤマさん業のように悪戦苦闘しているのではないか。そんなことを想像してしまう。

    渡邉 朋也 作家